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観劇日記 劇団三毛猫座朗読公演 くじらの昇る海底についての感想

目次

  1. まえがき
  2. くじらの昇る海底 感想
  3. あとがき

まえがき

昨日一昨日で、京都で行われていた劇団三毛猫座の朗読公演「くじらの昇る海底」が終演しました。
私は劇団員として広報、当日の受付など本当に一部ですがお手伝いをしました。

三毛猫座の舞台では、以前から近未来的な思想と人間の生と死、私たちの一番淀んだ感情を美しいビジュアルとのギャップをもって表現することが多いのですが、今回は「死」のテーマをより直接的に扱っている分、私個人としても思うところが多い作品でした。

そこで、感じたことを何か記録として残しておこうと書き始めた…のですが、やや勢いあまって長文になってしまいました。
よろしければお付き合いください。

ちなみに、この感想は私個人が1観客として三毛猫座を観劇した感想を勝手に書いたもので、劇団の演出意図や表現との関連性はありません。

また、夜中の勢いでまとめて書いたので、以下から「で、ある調」に変わっていますこと、ご了承くださいませ。

くじらの昇る海底 感想

少し関係ないように見えるかもしれないが、まず今回の公演で思い出したエピソードを何点か書き留めておきたい。


浦島太郎を読み聞かされた夜、怖すぎて寝られなくなったことがある。


何歳だったかとかはあまり覚えていないけど、ひとりで部屋にいたとき急に怖くなって「死ぬのはいやだ、死にたくない」と泣き叫んだ。

あのとき絵本の浦島太郎の中では、別に浦島太郎が玉手箱をあけてお爺さんになるだけであって、死ぬという表現は使われていなかったように思う。

それでも死の話と捉えたのは、おそらく「自分ではどうしようもなく」「自分を誰も知らない世界で」「何かをするには時間のない年齢」という設定が、その後の浦島太郎の孤独死を強くイメージさせたからだろう。

周りに自分の家族が必ず誰かいて、友達も全員生きている世界が普通だった幼少期の私にとっては、死ぬこと自体の抽象的な怖さよりも孤独の怖さを語られる方が、死の怖さに近かった。

ぼんやりとした死生観しか持っていなかった私に、具体的な死のイメージを持たせたのは、浦島太郎だったのだ。

しかし私の初めて芽生えた死への恐怖を語っても、幼くて伝わるはずもない。加えて親は竹を割ったような性格をしているので、何を空想のことでそんなふうに言うの、大体、皆いつかは死ぬのよと笑って、半ば怒って返された。


その日の付近で見た夢もよく覚えている。


暗い夜の道路を、家族でタクシーに乗ってどこかへ向かっている。運転手の顔は見えず、親の顔もよく見えない。ただ、車の中は文字盤のライトが光っていた。

私は母に抱き抱えられていて、でも何故か不安で、両親に「どこへいくの?」と尋ねた。

親は、もうダメだから私たちは一緒にお墓へゆくの、そこでみんなで埋まるのよ、と答えた。何がダメなのか、何故みんなで埋まるのかよくわからないが、夢の中の私は表面的に「ふーん。」と一言伝えて、一緒にそのままお墓へ向かった。そこから先は覚えていない。

私には、幼い頃から何度か、身内の死に直面する場面や、誰かの死について親と話す場面があった。よく亡くなった人たちのためおぶくさんを供えて、親と一緒にお祈りをした。

今でもする。お焼香してお祈りする場面も人生の中で比較的多く、そのときはドラマや小説のようにありふれた「安らかに眠ってください、どうか見守っていてください、家族が健康でありますように」というような言葉を、心の中で唱える。

しかしそれが届ける相手、亡くなった人たちにとって心地いいものであるかは想像しようがない。

想っていても、なんというか、自身の偽善的な部分でそう思っているのか、義務なのか、心からそう思っているのかの判断が、私1人ではできないのだ。

結局は、私のエゴなのかもしれない。
相手が欲しい言葉をかけてあげられるのか、相手の欲しい行為であるかどうかは、相手が言葉を持ってこちらに伝えられない状況では、判断できず一方的だ。

これを「死人に口なし」という短文でまとめた先人はうまい。その先人にも今は口がない。


くじらの昇る海底を鑑賞して考えたことや思い出したことは、おおよそそんなことだった。


私たちは死んだことがないので、死が本質的にはわからない。

死はーーー正確には、死んだときの人間の感情や感覚がどうなるのか、どんな心地がするのかについては、誰かが急に死者と通信して生きている大多数の人と話せるテレフォン相談室ができない限りは、永遠の謎だ。

謎に対して人は好奇心を持ってしまうので、あれこれ妄想したり推測したり、あるいは勝手に自分の思いを重ねて、新しい世界を作ったりする。
または、謎を謎のままにしておくのはやはり気持ちが悪いので、架空の答えを作って、安心しようとする。

天国や地獄、仏、輪廻転生、終末思想、全て架空なのかもしれないし、真実なのかもしれないし、私たちが信じる未来なのかもしれない。
そして、お葬式や初七日、死者を追悼する行事はその世界と生きている私たちをつなげる唯一の手段で、亡くなった人たち以上に、生きている私たちを慰めているのかもしれない。

生きている人は生きている人の言葉しかわからず、この世の中は生きている人間の意見しかなく、亡くなった人たちの言葉は私たちが勝手に拾い上げたもので出来ている。

生きている側であると忘れてしまいそうな死への恐怖や疑問、感覚を、今回の公演を観ている中で私は改めて拾って、一つずつ大きく柔らかい深海色の布に繋ぎ止めた。


また孤独が死人だけのものではなく、生きている側にも同様にあることを、私は人と生きていると忘れてしまう。

自分はわかっている、通じていると思っていた相手に自分の意見を押し付けていただけのことが、今まで何度あっただろう。

このとき感じる孤独は、死の間際の孤独や死者となった時の孤独と何が違うのか、私にはまだわからない。

孤独と死は似ているのかもしれない。それはとても恐ろしい。

しかし、たくさんの孤独が、くじらが揺蕩うひとつの海の中で共に浮かんでいるのなら、それはそれで新しい架空の天国としては居心地がいいだろう。

架空の天国の底に落ちる死は、現在を孤独に生きている私たちとそう遠くはない。くじらに見つめられながら過ごす毎日の孤独を、私たちはいくつ安らかに、繋ぎ止めておけるだろうか。

あとがき

感想は以上です。
少し荒いので、後に修正するかもしれません。お読みいただきありがとうございました。

よければ劇団のHPやSNS等覗いてみてください。過去公演の情報などが掲載されています。

劇団三毛猫座公式HPはこちら

劇団三毛猫座Instagram

劇団三毛猫座Twitter

劇団三毛猫座YouTubeチャンネル

2021.03.29 kaorikid

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